燃えよスパイ

 ベルリン。冷戦期から各国の諜報員が暗躍し、激しく暗闘を繰り広げてきたこの街に、《ゴースト》という通り名のみが知られる男がいた。
 《ゴースト》――ピョ・ジョンソン(ハ・ジョンウ)。北朝鮮諜報機関の秘密工作員。祖国のため、数多くの秘密作戦に身を投じてきた歴戦のトップエージェント。共和国の謳われざる英雄(アンサング・ヒーロー)。
 その日もジョンソンは国家のための極秘任務に従事していた。アラブ系テロリストとの武器取引。米国をはじめとする先進諸国の監視の目をかいくぐり、大量破壊兵器の売買契約を取り付ける――窮地にある祖国を救うために必要な仕事だ。話し合いは若干のトラブルをはさみつつも首尾よくまとまり、あとは契約書にサインするだけ――
 しかし、突然鳴り響いた銃声が完璧だったはずの任務を打ち砕いた。イスラエル諜報部モサドの襲撃チームが取引現場を急襲したのだ。一瞬の隙をついて取引現場を逃走したジョンソンに、追っ手が次々襲い掛かる。圧倒的な戦闘能力で追っ手を撃退したジョンソンは、己が倒した相手が自分と同じアジア系の男たちだったことに気づく――韓国国家情報院の諜報員だ。取引の情報がどこからか漏れていたのだ!
 一方、韓国国家情報院の古株オフィサー、チョン・ジンス(ハン・ソッキュ)も焦りを隠せないでいた。せっかく北の尻尾を掴みかけたというのに、その努力が水泡に帰そうとしている。矢も盾もたまらず飛び出したジンスは、そこで《ゴースト》に遭遇した。逃がしてなるものか、と必死に《ゴースト》を追跡し、一旦は追い詰めたジンスだったが、一瞬の隙を衝かれ逃走を許してしまう。
 情報保全措置が取られていたはずの武器取引現場に敵国の情報機関が踏み込んできた――この失敗の背後にいるはずの裏切り者を処断するべく、ピョンヤンの指導部は保安監察員であるトン・ミョンス(リュ・スンボム)を派遣する。ミョンスを出迎えたベルリン駐在北朝鮮大使、リ・ハクス(イ・ギョンヨン)は彼の口から信じがたい情報を告げられる。祖国を裏切り情報をリークしたのは大使館付通訳官リョン・ジョンヒ(チョン・ジヒョン)――ジョンソンの妻だというのだ。英雄の妻に突如持ち上がった裏切りの疑惑――ハクスはジョンソンを呼び出し、ジョンヒの内偵を命じる。
 ジョンソンは激しく懊悩する。おれの妻が、祖国を裏切った?信じたくない――だが彼には思い当たる節があった。祖国を長く離れ、異邦の地での暮らしに疲弊しきった妻の姿。最初に授かった子供を亡くして以来、二人の間にできた埋めがたい溝。自分は任務に没頭するあまり、いちばん身近なひとのことがすっかり分らなくなっている――一旦芽生えた疑念は、見る見るうちに大きく膨れ上がっていった。
 一方ジンスも、《ゴースト》の行方を寝る間も惜しみ追跡し続けていた。南北融和のムードの中にあって「アカども」への嫌悪を隠さないジンスだったが、何よりもスパイ戦の最前線を生きてきたプロフェッショナル・オフィサーとして、CIAやMI6すら正体を知らぬ《ゴースト》をその手で捕らえたいという欲求が抑えられなくなっていたのだ。己の半生を捧げてきた仕事への誇りにかけても、必ず《ゴースト》の尻尾を掴む――ジンスの決意は固かった。
 いったい裏切り者は誰なのか?ベルリンの街を舞台に、いかなる陰謀が張り巡らされているというのか?それぞれ独自に諜報世界の闇に切り込んでいくジョンソンとジンスは、やがて驚愕の真実に行き当たる――。

『ベルリンファイル』(原題/The Berlin File、監督/リュ・スンワン、出演/ハ・ジョンウ、ハン・ソッキュリュ・スンボムチョン・ジヒョン他、2013年作品)

 いわゆる《ジェイソン・ボーン・ショック》以降、スパイアクション映画は大きく変質したといわれる。荒唐無稽な秘密兵器を駆使し、タキシードを隙なく着こなしたジェントルなスーパースパイは姿を消し、その代わりに鍛え上げた己の肉体と冷徹な知性によって幾重もの罠を食い破る荒々しい現場工作員が新たな時代のスパイ像として提示されたのだ(無論、現実のスパイの多くは『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』の主人公ジョージ・スマイリーのようなごく平凡な外見の小役人めいた人々なのだが)。このような「リアルスパイアクション」の延長線上に『ベルリンファイル』は位置している。
 タイトルロールはどことなくトニー・スコット作品を髣髴とさせる雰囲気だ。せわしない編集で加速された映像が目の前を猛スピードで流れ去っていく。ズームと望遠を巧みに取り混ぜたクールな画面作りもなかなか好印象。音楽の雰囲気は何となくハンス・ジマーっぽいが、太鼓などのサウンドも織り交ぜ独自色を出している。近年のアクション映画における「かっこいいポイント」を踏まえつつ、さりげなく独自の色彩を加えた洒落た導入部だ。否応なく期待感が高まってしまう。
 アクションはとにかく荒々しく、そしてスピーディだ。ジェイソン・ボーンの系譜に連なるコンパクトで破壊的な技の応酬が光る格闘シーンは正しく手に汗握る迫力である。それにコリアンバイオレンス特有の「手近にあるものは何でも凶器になる」即興性がプラスされ見たこともないユニークなアクションシーンが構築されている。個人的には「冷蔵庫から缶詰を取り出して敵の頭をぶん殴る」「固定電話の受話器+コードをヌンチャクとして利用」が面白かった。「敵を本気で殺しにかかっている」感が強く、重々しい効果音も相まってプロフェッショナル同士の真剣勝負としてのリアリティに満ちている。
 格闘シーンといえば弾切れになった拳銃を鈍器代わりにしてドツキあうというのも素晴らしいアイデアだと思った。拳銃を格闘武器とするアイデアは『リベリオン』で《ガン=カタ》として提示されているが、それをより泥臭く、血腥くしたような凶暴なスタイルである。グリップボトムで脳天を殴りつけたり、銃身を首筋や脇腹に叩きつけたりと、いちいち急所を狙っていくあたりが妙に生々しいし、銃器が打ち付けられるときの硬く重い音も恐ろしげだった。見せ方も含めて、今後ハリウッドで模倣されていくかも知れない。
 無論スパイ映画らしいギミックも忘れていない。ピョンヤンから派遣された保安監察員ミョンスは冷酷な殺し屋でもあり、ペンに偽装した特製の注射器に即効性の毒薬を充填し隠し持っている。「毒使い」の厭らしいイメージと相まって、ミョンスの油断ならない狡猾な側面を表すいい小道具である。コインに偽装した盗聴器、魚の腹の中に隠された麻酔注射器なんてのもある。スパイ映画の定番である暗号解読シーンも健在であり、特に冒頭近く、ジョンソンが協力者から手渡された暗号を解読する様子を視覚化した表現はなかなか秀逸だった。一見すると意味のない文字の連なりがパズルのように組み合わされ、意味ある文字列を形成していく様子は実にクールだ。
 あと、ガンマニアとしては銃撃戦のディテールもなかなか緻密なのも好感度が高い。ジョンソンはサイレンサ付のワルサーP99、ジンスはグロック・ピストルをキャリーする。近年のスパイアクションの定石にならったチョイスといえよう。アラブ系テロリストの親玉はデザートイーグルを使う。口径までは確認できなかったが、その強烈なインパクト、キャラクターの濃さは凄まじい。俗悪なシルバー仕上げなのもユーザのキャラクターにマッチしている。他にもH&K MP5KやB&T MP9、マイクロUZIなどヨーロピアSMGカラシニコフ突撃銃が大挙登場し、圧倒的なフルオート火力の凄まじさを見せ付ける。ガンガンと殴りつけてくるような銃声の猛々しい響きは恐ろしいくらいの迫力だ。役者のGUN捌きもなかなか堂に入っていて、メインアームからサイドアームへの素早いスイッチングなど近年のタクティカル・シューティングの影響を受けたようなシーンもあってなかなかリアリティがある。
 しかし、いちばんびっくりしたのはジンスが終盤で持ち出したCAAタクティカルRONIピストルカービン・コンバージョンキット。どうしてこんなのが出てきたのか詳しいことは不明だが、ひょっとするとスパイ兵器めいたギミック性が監督のお気に召したのかも知れない(笑)。ジンスがトップレールにマウントされたダットサイトの倍率を調節し、遠方の敵の様子を探るという細かい演出もなかなか心憎いものだった。
 

 ↑参考までに、CAAタクティカルRONIの動画。拳銃を組み込むことで小型のカービン銃に変身させるキットである。
 
 南北朝鮮のスパイたちを主役に据えた物語ではあるが、本作にそれほど政治的な臭いは感じない。北朝鮮とテロリストとの武器取引が物語の起点になっているとはいえ、それはあくまでも背景に過ぎない。本作においてより重要なのは「組織内の暗闘」である。本国の政治体制の再編に伴う否応なしの変化の荒波の中、野心溢れる連中が新たな体制における主導権を握るために繰り広げられる政治的策謀と裏切りの構図。これまでにも多くの映画で描かれてきたモチーフでもある。
 実を言うと、僕はこういう政治劇が好きなタチである。意味ありげな耳打ちだとか、内部監察とか、同僚の内偵とか、そういう不穏なムード溢れる場面を見ると否応なく興奮してしまう。内部抗争という点では韓国情報部もさして変わらず、規模は小さいながらも醜悪な出世争いの構図が描かれるあたりも面白かった。
 韓国サイドのジンスの頑固さ、プロフェッショナリズムも僕の好みである。周囲から「時代遅れのロートル」と揶揄され、出世コースからも外れてしまっているが、自分の仕事への誇りを胸に最前線で命を的に戦い続ける老練なオフィサー……僕の萌えポイントをリュ監督はどうしてご存知なんでしょうね(笑)。世慣れた大人の顔を見せるかと思えば、ツンデレ属性全開(笑)になったりという不思議な愛嬌も見所だろう。
 しかし、それにしてもハ・ジョンウ演じる北のトップ・エージェント、ジョンソンの圧倒的存在感ときたら!もともと『哀しき獣』(ナ・ホンジン監督)での演技を見て以来好きな俳優さんなのだけれど、今回は徹底した肉体改造でビルドアップされた屈強な肉体を駆使して荒々しいアクションを披露している。決して美男子じゃないのだが、均整の取れた身体つきは立っているだけでなかなか様になるし、ドイツ人と比較しても格負けしないだけの迫力がある。そして細やかで抑制の利いた演技も彼の魅力のひとつだ。今回も、国家英雄と尊敬される優秀な工作員と妻とのすれ違いに悩む一人の男という二面性を持つキャラクターを見事に演じきっている。
 完璧な仕事ぶりで信頼されているジョンソンだが、家庭には冷たい風が吹いていて……というあたりが妙にリアルだ。『トゥルーライズ』のハリー・タスカーよりもはるかに不憫である。寒々しく潤いのないアパートの情景がますますジョンソンの荒涼とした私生活を浮き彫りにする。任務に没頭するあまり、ハクス大使から取引相手の「接待」を命じられたジョンヒの心のダメージにも気づいてやれないダメ旦那ぶりがますます悲しい。このあたりの空気感はポリティカル・コレクトネスで雁字搦めにされたアメリカ人には真似できめえ(暴論)――というか、極めてアジア人的な感覚といえるかも知れない。夫への不満をこらえて気丈に振舞うジョンヒの寂しげな横顔は、欧米のアクション映画に出てくるようなアクティブで物怖じしない女性と異なる不思議な魅力があるのも事実だ。常に慎み深く控え目な妻として振舞いながらも、心の奥に激情を秘めたジョンヒは見るからに痛々しく、観客の涙を誘わずにはいられないだろう(そして朴念仁で鈍感男のジョンソンへの怒りを燃やすだろう――あんな美しいひとを泣かせるなんて悪い男だ)。
 そこに降って湧いたジョンヒのスパイ疑惑が、皮肉なことに長いあいだ冷え切っていた夫婦の間の絆を取り戻すきっかけになる。……こういう展開に僕は弱い。メロドラマ主義者としてのストライクゾーンのど真ん中を撃ち抜かれてしまう。リュ監督、どうしてあなたは僕の好みをご存知なんでしょうね?(二回目)――敵に囲まれたことを知った夫婦がとっさに交し合う視線の切なさ、ジョンソンが万感の思いを込めて、不器用ながらも妻への愛情を告げるシーンは否応なく観客の胸を打つ(僕は不覚にもウルッとしてしまった)。
 そう、この映画のもうひとつの軸は今どき直球過ぎるくらいのメロドラマだ。小賢しいひねりなど端から捨て去った直球ど真ん中の剛速球で観客の心をぶち抜く堂々たる恋愛ドラマ、そして香港ノワールめいた立場を超えた男同士の信頼と友情の物語だ。これが燃えずにいられようか。スパイに真の友人は存在しない?スパイは愛と無縁?そんなこと誰が決めた!おれはそんなこと気にしないぞ!と吼えるリュ監督の姿が目に見えるようだ。ジェイソン・ボーン・サガめいた非情のプロットに濃厚すぎるメロドラマ成分を大量投入した結果、本作は他に類例がないほど「燃える」スパイアクション映画として爆誕したのである。本当に、この映画は最高だ。
 本作は燃え盛る炎のように熱く、疾風怒濤の如きスピード感に溢れた熱血スパイアクションの傑作である。脇目も振らず一直線にクライマックスに向かって突っ走る圧倒的な力業、燃えるようなエモーショナルなストーリーが観客の心を熱くたぎらせることだろう。
 男のファンタジーだと言われたっていい、僕はこの映画が大好きだ。