『アメリカン・スナイパー』(2015年、アメリカ/監督:クリント・イーストウッド/出演:ブラッドリー・クーパー、シエナ・ミラー他)

INTRODUCTION
クリス・カイル。
米軍最強とうたわれる海軍特殊部隊シールズの精鋭。160人もの敵を倒した伝説的狙撃兵。
いろいろなことを皆は言う。いわく英雄、いわく悪魔。歴史に名を刻んだ数多の狙撃兵と同じように、伝説のもやに包まれた存在。
でも、そんな彼の素顔は、ひどく人間的で、それゆえにかなしい。

STORY
2003年、イラク。廃墟と化した街で、米海軍特殊部隊シールズの狙撃兵クリス・カイルはパトロール中の海兵隊の援護任務についていた。
彼の目の前に現れたのは、ひとりの女性とあどけない顔つきの子どもだった。ただの通行人だろうか。いや――ちがう。旧ソ連製のRKG-3対戦車手榴弾を持っている。友軍の戦車を攻撃するつもりなのだ。放っておけば、多くの仲間の命が危ない。
彼はだから、二人を撃った。そしてそれが、イラクにおける彼の最初の戦果だった。

「人間には三種類いる。羊、狼、そして牧羊犬だ」――それがカイルの父親の価値観だった。だから、お前は牧羊犬になるんだ、と。
ロデオのヒーローとして活躍しつつも、人生に行き詰まりを感じていたカイルは、米大使館爆破事件の報に接してその教えを思い出した。そして、いてもたってもいられず、海軍の新兵募集所の門を叩いたのだ。やがて彼は、海軍はおろか米軍全軍の中でも最精鋭とうたわれる特殊部隊、シールズに志願。過酷な訓練を経て、カイルは自らの狙撃兵としての適性を見出す。
一方で、カイルは酒場で偶然出会った女性、タヤに心ひかれる。幾度かのデートの末、ついにゴールインを果たした二人だったが、しあわせな結婚生活はほんのわずかしか続かなかった。
2001年9月11日、テロリストにハイジャックされた旅客機が世界貿易センタービルペンタゴンにつっこんだからだ。
前代未聞の同時多発テロに震撼したアメリカは、国家を挙げて「テロとの戦い」に突入していく。アフガニスタン、そしてイラク……その戦いの尖兵として、米軍最精鋭たるシールズにかけられる期待は大きかった。だからこそカイルは身重のタヤを置いて、イラクへと出征したのだった……。

イラクの地で、カイルはめきめきと狙撃兵としての本領を発揮していった。昼夜をとわず、場所を選ばず、引金を切る指と化して撃ち続けた――友軍に仇なす敵を容赦なく殺し続けた。やがて彼は、多くの兵士たちから英雄視されるようになる。だがそれは同時に、アメリカの支配を快く思わない連中の憎しみを一身に集めることでもあった。「ラマディの悪魔」を抹殺するべく、アル・カーイダの指導部は腕利きの狙撃手・ムスタファを招聘したのだ。恐るべき強敵の登場に苦しめられるカイル。だが、問題はそればかりではなかった。
来る日も来る日も殺し、殺し、殺しつづけるうちに、いつしかカイルの精神はじわじわと荒廃し、国で帰りをまつタヤとのあいだに深刻な乖離が生じ始めていたのだ……。

IMPRESSION
とにかく、ただひたすら圧倒される映画でした。
ひとりの男の人生を通して描かれる、9.11以降のアメリカの肖像。その重み、その痛みに、ただただ胸がつまり、言葉を失うしかありませんでした。

本作は周知のように伝記映画であり、同時におどろくほど明快な西部劇のフォーマットにそってつくられたエンターテインメント映画という側面をもっています。狙撃兵同士の息詰まる死闘はガンマンの決闘のイメージそのままですし、砂塵舞うイラク市街地での銃撃戦はマカロニ・ウェスタンめいた雰囲気をただよわせています。カイルの宿敵となるアル・カーイダの狙撃手、ムスタファや、ザルカウィの右腕と目されるアル・カーイダ幹部《虐殺者》の造形も劇画的にデフォルメされていて、ステレオタイプな「テロリスト」や「イスラム過激派」の範疇におさまらない強烈な個性がありました(特に《虐殺者》のファッションは印象的でした――あの黒革のジャケットはじつにいい)。
しかし、だからといって、本作は能天気な活劇映画ではありません。むしろ、そうしたフォーマットを採用したことで、かえって戦争という究極の暴力の無惨さ、冷酷さが浮き彫りになっていくのです。
本作における銃撃戦はひたすら過酷で恐ろしいものとして描かれます。耳朶に突き刺さる金属質の銃声は猛々しく暴力的であり、銃撃によってもたらされる死はどうしようもないほど凄惨です。ムスタファがはじめて登場し、カイルたちのチームに銃撃をあびせるシーンはその好例でしょう。姿なき狙撃兵の恐怖、突然襲いかかる死の暴力性は観る者の心を容赦なく凍らせます。銃声が銃弾より後から届くという描写(高速ライフル弾は音速より速く飛ぶので、こういうことは実際に起こる)もあいまって、狙撃兵がいかに恐ろしい存在であるかがあからさまに示されるわけです。
そして、そうした「恐るべき殺人マシン」としての狙撃兵のイメージは、そっくりカイルにもはねかえってきます。なにしろ、彼が最初に撃った相手は女性と子どもなのです。「That's right. I've killed women and children. I killed just about everything that walked or crawled at one time or another.(そのとおりだ。女も子どもも殺した。歩くやつも這っているやつもなんでも殺してやった)」――イーストウッドの名作『許されざる者』の有名なセリフのように、容赦なく敵を殺していくカイルの姿は人間離れしていて、ただひたすら恐ろしく感じられました。
しかし、そんなカイルは同時に、ひとりの夫、ひとりの父親でもあるのです。そして、兵士と家庭人というふたつの顔のはざまで、カイルの心はゆっくりと引き裂かれていきます。過酷な戦地での経験はいやおうなくカイルの精神をむしばみ、彼の家庭をおびやかしていくのです。そんなカイルのことを誰よりも案じ、彼との気持ちの乖離に苦悩するタヤの姿もひたすらに切なく痛々しいものでした。
そんなふたりの距離感を、イーストウッド監督は携帯電話を使って効果的に表現します。過酷な戦場に身を置くカイルと、ひとりぼっちでわが子を守るタヤとの切ないすれ違い。いともたやすくつながってしまえるからこそ、互いの絶望的な遠さを思い知らされてしまう。それは、他の多くの米兵の家族も経験した苦しみでもあるはずです。この世界でいちばん近いはずのふたりが、どうしようもなく引き離されてしまうことの恐ろしさ、かなしさ――それは平和な日本でくらしているぼくにはリアルに想像しがたく、それゆえに圧倒されてしまいます。

この映画はクリス・カイルの物語であると同時に、彼の目を通して9.11以降のアメリカのたどった道のりを描いた映画でもあります。冒頭、イラクの市街地を進む戦車をとらえる地を這うようなショット。それは後半のプレデター無人機の視点からのショットと明快な対比をなしています。4度もの「ツアー」を経験したカイルが見てきただろうイラク戦争の推移を、イーストウッドは巧みな手つきでスクリーンにおとしこんでいきます。
そうして描き出されるアメリカの肖像は、どうしようもなく沈痛で重々しいものです。膨大な兵員と予算をついやしてなお、「テロとの戦い」は終わる気配を見せない。多くの兵士が心身に癒えない傷を抱え、軍を去っていく。そのことがアメリカ社会全体に投げかける重く暗い影。
「牧羊犬」たらんと欲し、戦いに身を投じるカイルも、いつしかどうしようもない運命にとらわれていきます。流された多くの血が、カイルの心をいやおうなく呪縛するのです。守れなかった多くの仲間たちが、彼を幾たびとなく戦場に呼び戻すのです。祖国を守るために銃をとったはずのカイルは、いつのまにか流された血をあがなうために戦うようになってしまうのです。それは、こういってよければ、彼が「蛮人ども」と呼んでやまないイラクのテロリストや民兵といくらもちがわぬメンタリティではないでしょうか。
戦争というものは、どうしようもなく人間を変えてしまう。多くの人々の運命をねじまげてしまう。それがどんな理由ではじまったものであるにせよ、戦争は多くの人間を苦しめ、永遠に消えない傷を残す。それは動かしがたい真実であると、イーストウッドは我々につきつけてきます。
しかし、イーストウッドイラク戦争について、その是非を語ろうとはしません。イーストウッド自身はイラク戦争に反対であったといいますが、そうした主張は本作においては注意深く、やかましくならないようにうすめられているように思います。
それは、この物語がクリス・カイルの物語であるからでしょう。クリス・カイルは、イラク戦争は正しい戦争だったと信じていたのですから。だからこそ、イーストウッドは本作で「ただ、そうあるもの」として戦争を描き、提示してきたのでしょう。自分自身の信条を映画に過剰に反映させることをよしとしなかったのでしょう。
だからこそ、本作が問いかけるものは重く我々の心に突き刺さってきます。戦争を引き起こすのは他でもない、我々ひとりひとりの決断であり、その結果として兵士は戦場におもむくのだと。クリス・カイルは特別な存在ではない。彼と同じように、過酷で困難な任務につき、倫理のがけっぷちに立たされ、精神をすりへらしながら戦う多くのひとびとがいる。そして彼らもまた、愛するひとを国に残して戦っているのだと。そんな彼らの犠牲の上に、この国は成り立っているのだと。
だからこそ、とこの映画は問いかけます。あなたもまた、この物語と無関係ではないんだ、と。戦争と無関係ではないんだ、と。
それがどういうことなのか、自らの胸にしっかりと問うてほしい。
ぼくはこの映画から、そういう思いを受け取ったような気がしたのです。

だから、この映画は『アメリカン・スナイパー』なのだと、そう思います。

燃えよスパイ

 ベルリン。冷戦期から各国の諜報員が暗躍し、激しく暗闘を繰り広げてきたこの街に、《ゴースト》という通り名のみが知られる男がいた。
 《ゴースト》――ピョ・ジョンソン(ハ・ジョンウ)。北朝鮮諜報機関の秘密工作員。祖国のため、数多くの秘密作戦に身を投じてきた歴戦のトップエージェント。共和国の謳われざる英雄(アンサング・ヒーロー)。
 その日もジョンソンは国家のための極秘任務に従事していた。アラブ系テロリストとの武器取引。米国をはじめとする先進諸国の監視の目をかいくぐり、大量破壊兵器の売買契約を取り付ける――窮地にある祖国を救うために必要な仕事だ。話し合いは若干のトラブルをはさみつつも首尾よくまとまり、あとは契約書にサインするだけ――
 しかし、突然鳴り響いた銃声が完璧だったはずの任務を打ち砕いた。イスラエル諜報部モサドの襲撃チームが取引現場を急襲したのだ。一瞬の隙をついて取引現場を逃走したジョンソンに、追っ手が次々襲い掛かる。圧倒的な戦闘能力で追っ手を撃退したジョンソンは、己が倒した相手が自分と同じアジア系の男たちだったことに気づく――韓国国家情報院の諜報員だ。取引の情報がどこからか漏れていたのだ!
 一方、韓国国家情報院の古株オフィサー、チョン・ジンス(ハン・ソッキュ)も焦りを隠せないでいた。せっかく北の尻尾を掴みかけたというのに、その努力が水泡に帰そうとしている。矢も盾もたまらず飛び出したジンスは、そこで《ゴースト》に遭遇した。逃がしてなるものか、と必死に《ゴースト》を追跡し、一旦は追い詰めたジンスだったが、一瞬の隙を衝かれ逃走を許してしまう。
 情報保全措置が取られていたはずの武器取引現場に敵国の情報機関が踏み込んできた――この失敗の背後にいるはずの裏切り者を処断するべく、ピョンヤンの指導部は保安監察員であるトン・ミョンス(リュ・スンボム)を派遣する。ミョンスを出迎えたベルリン駐在北朝鮮大使、リ・ハクス(イ・ギョンヨン)は彼の口から信じがたい情報を告げられる。祖国を裏切り情報をリークしたのは大使館付通訳官リョン・ジョンヒ(チョン・ジヒョン)――ジョンソンの妻だというのだ。英雄の妻に突如持ち上がった裏切りの疑惑――ハクスはジョンソンを呼び出し、ジョンヒの内偵を命じる。
 ジョンソンは激しく懊悩する。おれの妻が、祖国を裏切った?信じたくない――だが彼には思い当たる節があった。祖国を長く離れ、異邦の地での暮らしに疲弊しきった妻の姿。最初に授かった子供を亡くして以来、二人の間にできた埋めがたい溝。自分は任務に没頭するあまり、いちばん身近なひとのことがすっかり分らなくなっている――一旦芽生えた疑念は、見る見るうちに大きく膨れ上がっていった。
 一方ジンスも、《ゴースト》の行方を寝る間も惜しみ追跡し続けていた。南北融和のムードの中にあって「アカども」への嫌悪を隠さないジンスだったが、何よりもスパイ戦の最前線を生きてきたプロフェッショナル・オフィサーとして、CIAやMI6すら正体を知らぬ《ゴースト》をその手で捕らえたいという欲求が抑えられなくなっていたのだ。己の半生を捧げてきた仕事への誇りにかけても、必ず《ゴースト》の尻尾を掴む――ジンスの決意は固かった。
 いったい裏切り者は誰なのか?ベルリンの街を舞台に、いかなる陰謀が張り巡らされているというのか?それぞれ独自に諜報世界の闇に切り込んでいくジョンソンとジンスは、やがて驚愕の真実に行き当たる――。

『ベルリンファイル』(原題/The Berlin File、監督/リュ・スンワン、出演/ハ・ジョンウ、ハン・ソッキュリュ・スンボムチョン・ジヒョン他、2013年作品)

 いわゆる《ジェイソン・ボーン・ショック》以降、スパイアクション映画は大きく変質したといわれる。荒唐無稽な秘密兵器を駆使し、タキシードを隙なく着こなしたジェントルなスーパースパイは姿を消し、その代わりに鍛え上げた己の肉体と冷徹な知性によって幾重もの罠を食い破る荒々しい現場工作員が新たな時代のスパイ像として提示されたのだ(無論、現実のスパイの多くは『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』の主人公ジョージ・スマイリーのようなごく平凡な外見の小役人めいた人々なのだが)。このような「リアルスパイアクション」の延長線上に『ベルリンファイル』は位置している。
 タイトルロールはどことなくトニー・スコット作品を髣髴とさせる雰囲気だ。せわしない編集で加速された映像が目の前を猛スピードで流れ去っていく。ズームと望遠を巧みに取り混ぜたクールな画面作りもなかなか好印象。音楽の雰囲気は何となくハンス・ジマーっぽいが、太鼓などのサウンドも織り交ぜ独自色を出している。近年のアクション映画における「かっこいいポイント」を踏まえつつ、さりげなく独自の色彩を加えた洒落た導入部だ。否応なく期待感が高まってしまう。
 アクションはとにかく荒々しく、そしてスピーディだ。ジェイソン・ボーンの系譜に連なるコンパクトで破壊的な技の応酬が光る格闘シーンは正しく手に汗握る迫力である。それにコリアンバイオレンス特有の「手近にあるものは何でも凶器になる」即興性がプラスされ見たこともないユニークなアクションシーンが構築されている。個人的には「冷蔵庫から缶詰を取り出して敵の頭をぶん殴る」「固定電話の受話器+コードをヌンチャクとして利用」が面白かった。「敵を本気で殺しにかかっている」感が強く、重々しい効果音も相まってプロフェッショナル同士の真剣勝負としてのリアリティに満ちている。
 格闘シーンといえば弾切れになった拳銃を鈍器代わりにしてドツキあうというのも素晴らしいアイデアだと思った。拳銃を格闘武器とするアイデアは『リベリオン』で《ガン=カタ》として提示されているが、それをより泥臭く、血腥くしたような凶暴なスタイルである。グリップボトムで脳天を殴りつけたり、銃身を首筋や脇腹に叩きつけたりと、いちいち急所を狙っていくあたりが妙に生々しいし、銃器が打ち付けられるときの硬く重い音も恐ろしげだった。見せ方も含めて、今後ハリウッドで模倣されていくかも知れない。
 無論スパイ映画らしいギミックも忘れていない。ピョンヤンから派遣された保安監察員ミョンスは冷酷な殺し屋でもあり、ペンに偽装した特製の注射器に即効性の毒薬を充填し隠し持っている。「毒使い」の厭らしいイメージと相まって、ミョンスの油断ならない狡猾な側面を表すいい小道具である。コインに偽装した盗聴器、魚の腹の中に隠された麻酔注射器なんてのもある。スパイ映画の定番である暗号解読シーンも健在であり、特に冒頭近く、ジョンソンが協力者から手渡された暗号を解読する様子を視覚化した表現はなかなか秀逸だった。一見すると意味のない文字の連なりがパズルのように組み合わされ、意味ある文字列を形成していく様子は実にクールだ。
 あと、ガンマニアとしては銃撃戦のディテールもなかなか緻密なのも好感度が高い。ジョンソンはサイレンサ付のワルサーP99、ジンスはグロック・ピストルをキャリーする。近年のスパイアクションの定石にならったチョイスといえよう。アラブ系テロリストの親玉はデザートイーグルを使う。口径までは確認できなかったが、その強烈なインパクト、キャラクターの濃さは凄まじい。俗悪なシルバー仕上げなのもユーザのキャラクターにマッチしている。他にもH&K MP5KやB&T MP9、マイクロUZIなどヨーロピアSMGカラシニコフ突撃銃が大挙登場し、圧倒的なフルオート火力の凄まじさを見せ付ける。ガンガンと殴りつけてくるような銃声の猛々しい響きは恐ろしいくらいの迫力だ。役者のGUN捌きもなかなか堂に入っていて、メインアームからサイドアームへの素早いスイッチングなど近年のタクティカル・シューティングの影響を受けたようなシーンもあってなかなかリアリティがある。
 しかし、いちばんびっくりしたのはジンスが終盤で持ち出したCAAタクティカルRONIピストルカービン・コンバージョンキット。どうしてこんなのが出てきたのか詳しいことは不明だが、ひょっとするとスパイ兵器めいたギミック性が監督のお気に召したのかも知れない(笑)。ジンスがトップレールにマウントされたダットサイトの倍率を調節し、遠方の敵の様子を探るという細かい演出もなかなか心憎いものだった。
 

 ↑参考までに、CAAタクティカルRONIの動画。拳銃を組み込むことで小型のカービン銃に変身させるキットである。
 
 南北朝鮮のスパイたちを主役に据えた物語ではあるが、本作にそれほど政治的な臭いは感じない。北朝鮮とテロリストとの武器取引が物語の起点になっているとはいえ、それはあくまでも背景に過ぎない。本作においてより重要なのは「組織内の暗闘」である。本国の政治体制の再編に伴う否応なしの変化の荒波の中、野心溢れる連中が新たな体制における主導権を握るために繰り広げられる政治的策謀と裏切りの構図。これまでにも多くの映画で描かれてきたモチーフでもある。
 実を言うと、僕はこういう政治劇が好きなタチである。意味ありげな耳打ちだとか、内部監察とか、同僚の内偵とか、そういう不穏なムード溢れる場面を見ると否応なく興奮してしまう。内部抗争という点では韓国情報部もさして変わらず、規模は小さいながらも醜悪な出世争いの構図が描かれるあたりも面白かった。
 韓国サイドのジンスの頑固さ、プロフェッショナリズムも僕の好みである。周囲から「時代遅れのロートル」と揶揄され、出世コースからも外れてしまっているが、自分の仕事への誇りを胸に最前線で命を的に戦い続ける老練なオフィサー……僕の萌えポイントをリュ監督はどうしてご存知なんでしょうね(笑)。世慣れた大人の顔を見せるかと思えば、ツンデレ属性全開(笑)になったりという不思議な愛嬌も見所だろう。
 しかし、それにしてもハ・ジョンウ演じる北のトップ・エージェント、ジョンソンの圧倒的存在感ときたら!もともと『哀しき獣』(ナ・ホンジン監督)での演技を見て以来好きな俳優さんなのだけれど、今回は徹底した肉体改造でビルドアップされた屈強な肉体を駆使して荒々しいアクションを披露している。決して美男子じゃないのだが、均整の取れた身体つきは立っているだけでなかなか様になるし、ドイツ人と比較しても格負けしないだけの迫力がある。そして細やかで抑制の利いた演技も彼の魅力のひとつだ。今回も、国家英雄と尊敬される優秀な工作員と妻とのすれ違いに悩む一人の男という二面性を持つキャラクターを見事に演じきっている。
 完璧な仕事ぶりで信頼されているジョンソンだが、家庭には冷たい風が吹いていて……というあたりが妙にリアルだ。『トゥルーライズ』のハリー・タスカーよりもはるかに不憫である。寒々しく潤いのないアパートの情景がますますジョンソンの荒涼とした私生活を浮き彫りにする。任務に没頭するあまり、ハクス大使から取引相手の「接待」を命じられたジョンヒの心のダメージにも気づいてやれないダメ旦那ぶりがますます悲しい。このあたりの空気感はポリティカル・コレクトネスで雁字搦めにされたアメリカ人には真似できめえ(暴論)――というか、極めてアジア人的な感覚といえるかも知れない。夫への不満をこらえて気丈に振舞うジョンヒの寂しげな横顔は、欧米のアクション映画に出てくるようなアクティブで物怖じしない女性と異なる不思議な魅力があるのも事実だ。常に慎み深く控え目な妻として振舞いながらも、心の奥に激情を秘めたジョンヒは見るからに痛々しく、観客の涙を誘わずにはいられないだろう(そして朴念仁で鈍感男のジョンソンへの怒りを燃やすだろう――あんな美しいひとを泣かせるなんて悪い男だ)。
 そこに降って湧いたジョンヒのスパイ疑惑が、皮肉なことに長いあいだ冷え切っていた夫婦の間の絆を取り戻すきっかけになる。……こういう展開に僕は弱い。メロドラマ主義者としてのストライクゾーンのど真ん中を撃ち抜かれてしまう。リュ監督、どうしてあなたは僕の好みをご存知なんでしょうね?(二回目)――敵に囲まれたことを知った夫婦がとっさに交し合う視線の切なさ、ジョンソンが万感の思いを込めて、不器用ながらも妻への愛情を告げるシーンは否応なく観客の胸を打つ(僕は不覚にもウルッとしてしまった)。
 そう、この映画のもうひとつの軸は今どき直球過ぎるくらいのメロドラマだ。小賢しいひねりなど端から捨て去った直球ど真ん中の剛速球で観客の心をぶち抜く堂々たる恋愛ドラマ、そして香港ノワールめいた立場を超えた男同士の信頼と友情の物語だ。これが燃えずにいられようか。スパイに真の友人は存在しない?スパイは愛と無縁?そんなこと誰が決めた!おれはそんなこと気にしないぞ!と吼えるリュ監督の姿が目に見えるようだ。ジェイソン・ボーン・サガめいた非情のプロットに濃厚すぎるメロドラマ成分を大量投入した結果、本作は他に類例がないほど「燃える」スパイアクション映画として爆誕したのである。本当に、この映画は最高だ。
 本作は燃え盛る炎のように熱く、疾風怒濤の如きスピード感に溢れた熱血スパイアクションの傑作である。脇目も振らず一直線にクライマックスに向かって突っ走る圧倒的な力業、燃えるようなエモーショナルなストーリーが観客の心を熱くたぎらせることだろう。
 男のファンタジーだと言われたっていい、僕はこの映画が大好きだ。

ハロー、死神

 これまで、様々な魅力的なヴィラン(悪党)が映画史に偉大な足跡を刻んできた。『ダイ・ハード』のハンス・グルーバー、『ターミネーター』のT-800、『ダーティハリー』の《スコルピオ(さそり)》。最近だと『ダークナイト』のジョーカーも有名だ。どの悪党たちも強烈な個性のオーナーである。
 今回紹介する映画に登場する悪党も、確実に《悪党の殿堂》に永遠にその名を刻まれることになるはずだ。そのあまりに特異なキャラクターは、これから先も映画ファンの間で長く語り継がれることになるだろう。
 その悪党の名は、アントン・シガーという。


ノーカントリー』(原題/No Country for Old Men、監督/ジョエル&イーサン・コーエン、出演/トミー・リー・ジョーンズハビエル・バルデムジョシュ・ブローリン他、2007年作品)
 
 
 基本的に、この作品は典型的なノワールもののストーリーを踏襲しているように見える。ふとした偶然から大金を手にした小悪党を、組織に雇われた殺し屋が追うというものだ。問題は、その殺し屋が正真正銘の狂人だということである。
 ハビエル・バルデム演じるシガーは一目見たら絶対に忘れられないほど強烈な御仁だ。容貌魁偉な巨顔にマッシュルーム・カット。図体もでかい。殺し屋というにはいささか悪目立ちし過ぎといえる。しかしシガーの真の問題は、その行動にある。端的に言えば、彼は無闇やたらと人を殺しまくるのである。
 冒頭、いかなる経緯によってか捕らわれの身になったシガーは自分を逮捕した保安官助手をにべもなく絞め殺してパトカーを強奪し逃走、その後偶然出会った男を殺害しその男の車を奪う。一連の凶行を、シガーは淡々と滑らかにこなしていく。その顔には興奮も恐れもなく、ただ木彫りの面のような無表情が貼りついたままだ。
 シガーは作中、出会った人々を次々に殺すが、なぜ殺すのかという理由はほとんど語られないし、そもそも理由などというものがあるのかどうかすら疑わしい(何とも理不尽極まりないことに、コインの表裏に犠牲者の運命を決めさせたりもするのだ!)。どうして殺し屋になったのか、どうしてそんな人間になってしまったのか、それすらも語られることはない。ただ分ることは、シガーにとって殺しは日常の延長にある行為だということだ。シガーはこの社会を貫く倫理の埒外を生きる男なのだ。
 一方、シガーに追われることになるルウェリン・モス(ジョシュ・ブローリン)はもう少し分りやすいキャラクターだ。ヴェトナム帰還兵であるモスは、基本的に己のみを恃むアウトロウであり、ルールなどクソ食らえの男だ。度胸も据わっており、武器の扱いにも長けている。彼もまた暴力に満ちた人生を送り、社会の外縁を歩むようになった男であり、いわゆる善良な市民からすれば恐ろしい人物といえるだろう。しかし、そんなモスですら、シガーの前では真人間も同然だ。
 シガーとモスを追跡するベル保安官(トミー・リー・ジョーンズ)は、シガーが通り過ぎた後に広がる惨状を前にただ呆然とするばかりだ。彼は作中において度々「最近の凶悪な犯罪」について語る。わたしが若い頃にはこんなことはなかった、と。古い世代(Old Men)に属するベルは、本作において最も観客に近い位相に存在するキャラクターであり、それゆえに彼がシガーに対し無力であるという事実は観客を震え上がらせる。法の執行官、秩序の番人を以てしても抑えられない相手に、どのように立ち向かえというのか?

 荒涼としたシガーの生き様を表すかのように、本作の演出もまた非情で寒々しいものである。色褪せたような独特のトーンで写し取られたテキサスの荒野は観るものの心をささくれ立たせるような冷酷な空気に満ちている。感情を喚起させる要素など不要とばかりにBGMもストイックなまでに廃されている。不穏な静寂に支配された空間には張り詰めたような暴力の気配が満ち、観ているだけで息が苦しくなってくるほどだ。
 暴力描写は強烈の一言に尽きる。冒頭の保安官助手の殺害シーンなどはとりわけ凄まじい。無言のうちに展開される凶行を、執拗にカメラは捉えていく。口を大きく開け、舌を突き出してもがき苦しむ保安官助手の動きが少しづつ弱まり、そしてついに脱力するまでの様子を一気に見せる。シガーの無慈悲さ、残酷さが一発で観客に伝わるよいシーンだと思う。
 また、本作は銃火器の描写もなかなか凝っている。個人的にはモスが銃砲店で購入した散弾銃の銃身とストックを切り詰めスリングをテープで固定する一連のシークエンスと、シガーが使うサイレンサーつきの自動散弾銃(IMFDBによるとレミントン11-87)と屠殺用のガスガンが印象的だった。でかいガスボンベに繋がれたガスガンのトリガを操作すると、鋭いロッドが突き出し頭蓋骨を貫くのだ。シガーはこれは殺人ばかりでなく錠前破りにも用いるのだが、デバイスの奇抜さと相まってシガーの異様なキャラクターを際立たせる役に立っていたと思う。
 中盤、シガーに追われたモスは散弾銃を撃ちまくってシガーに手傷を負わせる。シガーは獣のように逃走し、途中薬品などを強奪して傷を治療するが、その描写もなかなか強烈だった。惨たらしく散弾がめり込んだ傷口を水で清め、麻酔を打ち、ピンセットで散弾を抉り出す。その一連の行動の異様な冷静さ、自分自身すらも物体のように扱うその手際に眩暈がしそうになった。ああ、この男はどうしようもなく異質な存在なのだと思い知らされる場面だった。この男に比べたら、『ダークナイト』のジョーカーだってまだ可愛げがあるというものだ。
 
 とどのつまり、本作はシガーという途方もない男を中心に展開される物語である。ある日突然、前触れもなく犠牲者の前に姿を現し、全く理不尽で抗いようのない死をもたらす歩く災厄。それがシガーだ。そういってよければ死神である。モスもベル保安官も、シガーという巨大な嵐に翻弄される枯葉のような存在に過ぎない。シガーは善悪すら超越した、純粋な死と暴力の使者だ。
 しかし、ベル保安官がいうように、シガーのような存在は「古きよき時代」には存在しなかったのだろうか?どうもそうは思えない。彼の叔父が語る話を聞けば分ることだ――保安官の職を辞するというベルに対し、この土地はもともと暴力に塗れているのだと、叔父はそう諭すのである。お前ひとりの働きで何かが変わるわけではないのだと。
 死神は日常の中に潜んでいる。普段我々はその存在に気づくこともなく日々を過ごしているが、ほんのわずかなきっかけが微妙な均衡を崩すが否や、日常は脆くも崩れ落ち無慈悲な死と暴力が我々の前に立ち現れるのだ。それは大昔から変わることがない。死はいつでも理不尽に襲い掛かって、容赦なく全てを奪い去っていく。そこに理路整然とした文脈など存在しない。我々はただ暴力的な死の脅威になす術なく立ちすくむばかりだ。
 我々のすぐそばに、シガーはいるのである。

ああ酷暑(涙)

・ブログを放置すること1年近く……暫定復活であります。もう何も怖くないぞ。うわははははは。
・ここ最近Twitterに入り浸り気味。ちと反省……
・最近読んだ本=大藪春彦『ウィンチェスターM70』、ジェイムズ・カルロス・ブレイク『荒ぶる血』、ロジャー・スミス『這いつくばって慈悲を乞え』、デイヴィッド・ピース『TOKYO YEAR ZERO』『占領都市 TOKYO YEAR ZERO II』、ケヴィン・ダットン『サイコパス 秘められた能力』、B.ボンド&P.N.モーゼス『ニンジャスレイヤー ザイバツ強襲!』
・最近観た映画=『さらば友よ、静かに死ね』『PARKER』『リプレイスメント・キラー』『サルタナがやって来る 〜虐殺の一匹狼〜』『ロンドンゾンビ紀行』『アンタッチャブル
デイヴィッド・ピースの毒にあてられて、ちとフラフラ。反復される悪夢的なモチーフと神経を苛立たせる文体に引きずられるように、いつしか戦後日本の陰惨な血まみれの暗部を覗き込んでいる。おっかねえ。
・ひたすら暑いが、スイカはうまい季節である。あの爽やかな甘みと瑞々しい果汁がたまらなく嬉しい。ただ、食べ過ぎると水っ腹になるので程々が肝心。
・上記の小説・映画についての感想はまた後ほど。

生きるために、闘え

 ちょっと想像してみて欲しい。
 もしあなたが乗っていた飛行機が、運悪く零下20度のツンドラ地帯のど真ん中に墜落してしまったとしたら。
 防寒着はない。食料も、水もほとんどない。暖を取ろうにも、暖房が使えないのはもちろん、火を起こすのも至難の業だ。
 救援も期待できない。広大無辺の雪原の中にあって、人間など、ほんのちっぽけな、虫けらにも等しい存在だ。捜索隊を何十人、いや何百人繰り出したとしても、あなたを見つけ出すことは不可能に近い。それはまるで、うず高く積まれたわらの山から、一本の小さな針を見つけ出すにも等しい絶望的な試みだ。あなたは、数少ない生存者とともに、ただそこにいるだけで命を失いかねない純白の地獄を踏破し、文明に守られた人里に辿り着かねばならない。
 しかし、問題はそれだけではない。
 あなたの喉笛に鋭い牙を突きたてようと、冷酷非情な狼の群れが、虎視眈々と狙いをつけているのだ……。


THE GREY 凍える太陽』(監督/ジョー・カーナハン、出演/リーアム・ニーソン他、2011年アメリカ作品)


 世の中に、「サバイバル映画」と呼ばれる映画はたくさんある。
 そういう映画には、いくつかの「決まりごと」というのがあるのが常だ。極限状況下でのロマンス、悲壮かつ劇的な「泣かせる」シーン、そして最後の最後、どたん場に追い詰められた主人公たちに差し伸べられる救援の手。もちろん最後はハッピーエンド、ご家族で安心してご覧いただけます――有り体に言ってしまえば、そういう「先が読みやすい」ご都合主義的展開が、この種の映画の特徴だ。
 そういう安直な展開を、この映画は厳しく拒絶している。
 何より徹底しているのは、登場人物たちを見舞う悲惨な最期の描写だ。彼らの死に様は実に様々だが、そこには劇的な要素は一切ないし、悲壮感をかきたてるような演出もない。キャラクターたちは、じつに静かに、あっけなく死んでいく。その描き方は、いっそ即物的とすらいえるほどに淡々としたものだ。
 また、キャラクターたちに割り振られた「死に方」も、いわゆる「決まりごと」には程遠い。普通、こういう映画では、善良で協力的な人物は最後まで生き残るか、そうでなくても比較的穏やかな最期を迎えるものだし、逆に勝手気ままで傲慢なトラブルメーカーには、その振る舞いにふさわしい悲惨な死が用意されているものだ。しかし、本作を撮るにあたって、カーナハン監督はそうした「定型的な死」を一切拒絶した。各人の人格/行動と、一切の因果関係を持たない死に様を、キャラクターたちに与えたのである。
 そんな不条理な――と、そう叫びたくなるような悲惨な展開。かくいうぼくも、そのあたりは同様で、「この人には助かって欲しい……」と願っていた人物が、凄惨な最期を迎えたときにはかなりショックだった。「なんと残酷な……」と、しばし信じられない思いだった。
 このあたりの描写に関して、次に示す監督のセリフはなかなか意味深長である。
  

「ここには善人も悪人もいない。ただ“存在”があるのみだ」公式パンフレット「PRODUCTION NOTE」より抜粋

 監督が、いわゆる「勧善懲悪」のストーリーを選択しなかった理由が、このことばには凝縮されているように思う。極限の環境にあって、皮相な善悪二元論などは全く意味を持たず、ただ彼らの生死を分かつものは運だけなのだ。
 ニーソン演じる主人公、ハンターのオットウェイもその点では他の生存者と同様だ。飛行機事故に見舞われた際、とっさの機転で命を永らえたオットウェイだが、愛用のライフルは墜落時のショックで破壊され、彼は丸腰同然になってしまう。また、妻を失い、喪失感に苛まれるオットウェイは、自殺願望に囚われ、生きる気力を失いかけてもいる。ひょっとすると、他の生存者よりも死に近い位相に存在しているかも知れない人物なのである。
 そんな生存者たちに、血に飢えた獰猛な狼の牙が迫る。しかし、頼みのライフルを失い、打つ手のないオットウェイをはじめ、彼らにこの脅威を抑止する力はない。彼らにできるのは、狼の追撃をかわしながら、ひたすら逃げ続けることだけだが、分厚く雪が降り積もり、足下も危うい状況ではそれすら難しいことになってしまう。かくして、狼の血なまぐさい息を首筋に感じながら、生存者たちはひたすらアラスカの原野を逃げ惑うことになる。無論のこと、格好をつける余裕などありはしない。無様によろめき、転び、雪まみれになりながら、声にならない悲鳴を上げてよたよたと歩き続ける。その姿に、安手のヒロイズムが入り込む余地など一切ない。
 この映画が他の「サバイバル映画」と一線を画しているのはそこだ。徹底して「ウソっぽさ」を排除した、リアリズムに満ちた硬質の映像が、物語の非情さを際立たせ、生存のために命がけで闘う男たちの姿をくっきりと浮かび上がらせている。かっこつけのポーズなど、紙切れほどの意味も持たない極限状況下で、ひとがいかに生き、そして死んでいくのかを、この映画は端的に見せつける。
 
 しかし、この映画の醍醐味はそれだけではない。
 何よりもこの映画で注目すべきなのは、生存者たちを執念深く追跡する狼たちの存在だ。この映画で描かれる狼は、単なる「血に飢えた野獣」というステロタイプに留まらない、狡猾にして冷徹無比のハンター集団であり、闇に紛れて音もなく襲撃をかけてくる様は、ほとんど妖怪めいている。カーナハン監督はインタビューに対し、狼たちに「ミステリアスなファンタジー性」を盛り込みたかった、と述べているが、その目論見は見事にあたったと言うべきだろう。この物語における狼たちは、単なる「凶暴なモンスター」という役割を超えた、「大自然の猛威」の象徴になっているのだ。
 また、CGを極力使わず、実際の苛烈な天候のもとで撮影したアラスカの白い荒野は、いかなる生物の生存も容易に許さない過酷な相貌をむき出しにして、観客に容赦なく迫ってくる。びょうびょうと吹き荒れる嵐、息も白く凍りつくほどの冷気、大の男が膝まで埋まってしまうほどうず高く降り積もった雪――それらが渾然一体となり、荒れ狂う一頭の凶獣と化して生存者たちを痛めつける。文明の手厚い保護を受けられない生身の人間が、いかに脆く弱い存在であるかを、この映画は否応なく思い出させてくれる。
 だからこそ、かも知れないが、ほんの一瞬、彼方に見える高い峰の、白い雪を頂いた姿には、息を呑む凄絶な美しさがある。終盤におけるワンシーンの風情などは、雪舟水墨画か、ワイエスの風景画を思わせる枯淡の美に満ちて、思わず溜め息がこぼれそうになるほどだ。
 そんな、死と生の境界がおぼろに揺らぐ厳寒の荒野で、オットウェイたち生存者は、これまでの自らの人生を見つめ直すことになる。そして、いったいどのように行動したらいいのか、真剣に自らに問い直すことを求められるのである。その思索の過程で、オットウェイが吐く意味深長なセリフがある。

「人生の大切な思い出は、生きるため、闘うための力になる」

 この映画における最大のテーマとはそれである。「生きるために、闘え」――彼方から差し伸べられる死の抱擁をはねのけ、頑迷に生にしがみつき、どれほど醜く見えようとも、なりふり構わず闘い続けるということ。その大切さを、この映画は真っ直ぐに訴えかけてくる。
 その中にあって、一度は死に近づいたオットウェイも、再び生きるための闘争に飛び込んでいく。そのとき、彼の心に去来するのは、父が残した一篇の詩だ。

「もう一度 闘って 
 最強の敵を倒せたら
 その日に死んで 悔いはない
 その日に死んで 悔いはない」

 ラスト、絶対の危機に追い込まれたオットウェイは、静かにこの詩を口ずさみながら、「最強の敵」と闘うための準備を整える。その相貌、その目にみなぎる決然とした光は、生に倦み、死を乞い願う男のものではない。そして、高らかに、雄雄しく咆哮しながら、彼は最期の決戦に打って出るのだ。
 その姿を見たとき、不覚にもぼくは涙しそうになってしまった。深く傷つき、絶望に沈んでいた男が、苦難を経て復活し、雄雄しく危機に立ち向かう戦士へと変貌する――この映画は、まさにひとりの男の壮絶な再生の道程を描いた作品なのだった。

「この物語には目的地がない。あるのは旅の過程だけだ」

 そうインタビューに語ったように、カーナハン監督は、最期の闘いの決着をはっきりと描こうとしなかった。エンドロールのあと、激闘の傷跡を留めて横たわるオットウェイの姿は映し出されるが、闘いがどのように終わったのか、判断することは難しい。
 だが、その一点を以て、この作品にけちをつけることはできない。
 なぜならば、闘いの前に、この物語はすでに決着していたのである。

 
 この映画は、誰にでもお勧めできるものではない。
 しかし、面白いことは無類だし、何より生きるため、決然として起つオットウェイの姿は、文句なしにかっこいい。
 今、最高にかっこいい男を観たければ、この映画はぜひとも外せない一本になるはずだ。



 なお、追記として。
 この映画のエグゼクティブ・プロデューサー、トニー・スコット氏が、昨日唐突にこの世を去った。
 『エネミー・オブ・アメリカ』や『スパイ・ゲーム』、そして『トップガン』など、素晴らしい映画を数多く送り出してきた偉大な才能に敬意を表して、この場を借り、ひとりの映画ファンとして別れのことばを送りたい。
 ありがとうございました、ミスタ・スコット。

北限の街を、刑事はさまよう

 2007年、アラスカ・シトカ特別区。身を切るような冷たい風が吹きすさぶこの街で、ある日1人の男が死んだ。
 被害者の名はエマヌエル・ラスカー。エスペラント語創始者の名を冠したホテルの一室で、独りチェス盤に向かい、ヘロインの見せる幻覚と戯れていたその男の脳天に、何者かが銃弾を叩きこんだのだ。
 事件の捜査を担当することになったシトカ特別区警察の殺人課刑事、マイヤー・ランツマンは捜査行の前途が容易ならぬものになることを予感する。300万の人間が住まうこの街で、犯罪は決して珍しいものではないが、この種の処刑スタイルの殺人となるとその限りではないし、その類の事件が発生した場合、ほとんど確実に迷宮入りになるからだ。そして、もうひとつ、この事件の捜査にどす黒い暗雲を投げかける事態が、じりじりと進行しつつあった。
 かつて、シオンの地に帰還しようとした流浪の民たちの試みが、銃火によって粉砕されてからおよそ60年――そんな彼ら、ユダヤ人たちにとって、数少ない安息の地であったシトカ特別区は、その歴史に終止符を打ち、2ヵ月後にアメリカ合衆国に返還され消滅する。避け得ぬ「復帰」の荒波は、容赦なくランツマンの、そしてシトカの街に生きる300万のユダヤ人の運命を、弄ぼうとしていたのだった……。


ユダヤ警官同盟』(原題/“The Yiddish Policemen's Union”、著者/マイケル・シェイボン新潮文庫

ユダヤ警官同盟〈上〉 (新潮文庫)

ユダヤ警官同盟〈上〉 (新潮文庫)

ユダヤ警官同盟〈下〉 (新潮文庫)

ユダヤ警官同盟〈下〉 (新潮文庫)


 実は、この記事を書くにあたって、いくつか他の書評系ブログを閲覧して世間の評判を確認してみたのだが、予想していたよりも否定的な意見が多くて驚いた。それではどこが気に入らないのかというと、おおむねこの一点に集約できるといっていいだろう。
 ユダヤ人のことばっかダラダラ書いてあって、わけわかんねー、と。
 正直に申し上げるが、そういう人は本当に損をしている。この本は滅法面白い、一級のエンターテインメントであると同時に、優れた文学作品でもあるからだ。
 冒頭でも示したように、この物語はひとつの殺人事件を起点にして展開するミステリー小説である。また、酒びたりで妻とも離婚し、刑事としても限界に達しつつある孤独な中年男というランツマン刑事の造形は、典型的なハードボイルド探偵小説の主人公のそれである。また、一部のパートを除いて、ランツマン刑事の目を通して物語は語られていく。つまり、この小説はチャンドラーやハメットが体系化してきたアメリカン・ハードボイルドの系譜に属する作品なのである。個人的に、ぼくはハードボイルド小説が大好きなので、この部分だけでもとても楽しめた。
 しかし、この本の魅力はそれだけに留まらない。
 この本の醍醐味は、何といってもその精緻な情景描写にある。冒頭の《ザメンホフ・ホテル》、殺人現場のシーンの描写などは、ほとんど偏執的ですらあり、孤独なチェス・プレイヤーの生活の断面がくっきりと浮き彫りにされる様には唸るほかない。まるでカメラで写しとったかのようにリアルで、細部まで完璧に描きこまれた小汚い安ホテルの一室から、読者は異様で猥雑なシトカの街並みに吸い込まれていく。
 著者の精密な筆致によって描き出されるシトカの街並みは、書き割りめいた薄っぺらさからどこまでも遠く、驚くべき強度で以て屹立している。じっくりと読み込めば、歴史を重ねた古い建物のくたびれた風情や、通りを吹きぬける冷たい風の感触までが感じ取れることだろう。一から十まで、作者の脳髄からひねり出された虚構の産物であるにも関わらず、本当にシトカ特別区が存在しているのではないか、と錯覚させてしまうような精緻な文章には、ひたすら敬服するほかない。
 そうした著者の労を惜しまない姿勢は、人物造形にも遺憾なく発揮される。主人公のランツマン刑事は無論のことだが、一瞬しか登場しないようなキャラクターでも、一度見たら忘れられないような強烈な存在感がある。それは、「その他大勢」という無味乾燥な括りには収まりきらない、彼ら自身が生きてきた人生が背後にあり、強固な実体を持って物語の世界の中に確固たる地位を占めているからだ。適当に薄っぺらなテンプレキャラを並べ、体裁を取り繕っているだけの三文小説とは比べものにならない豊穣さだ。この豊かな文章を味わうだけでも、この小説には値千金の価値があると断言できる。
 そうして丹念に物語世界を構築してきたからこそ、ランツマンをはじめとしたユダヤ人全体の頭上から覆いかぶさろうとする《帰還》という容赦ない現実の重さが、まるで我がことのようにのしかかってくる。そして、単なる殺人事件と思われていた今回の事件が、差し迫った《帰還》に対する不安と恐怖の中で人々のあいだに広まる「救世主」の噂、そして前世紀に潰えたはずのもうひとつの《帰還》にまつわる巨大な陰謀と無気味な符合を見せはじめるにつれ、ランツマンは危険な隘路にに引き込まれていくことになる。
 そんなランツマン自身、《帰還》によってシトカを追われたら最後、どこにも行き場のない男である。家族もなく、親戚もおらず、海外に係累がいるわけでもない。《帰還》が現実のものになったら、ランツマンは彼の父祖と同様に、寄る辺なくさまよう放浪の民になるよりほか道がないのだ。ここに至って、ランツマンは否応なく自らの所属する民族の行く末について、真剣に考えることを余儀なくされるのである。
 ひとつの民族と一個人の運命とが奇妙に重なり合う――これがこの作品の大きなテーマである。ナチの暴虐を逃れてアラスカに逃げ延びてきたランツマンの父を見舞った苦痛に満ちた日々は、同時に過酷なアラスカ居留地での生活を耐え忍んだユダヤ人移民たちの歴史と重なるし、ランツマンの相棒・ベルコの抱える複雑な過去は、アメリカ政府の身勝手な政策の犠牲になったユダヤ人とネイティブ・アメリカンとの相克の歴史の写し鏡になっている。そして、避けられない《帰還》に怯え、「救世主」の到来を切望するシトカ市民の姿は、時の為政者たちの思惑に、風に舞う木の葉のように翻弄され、寄る辺なくさすらい、ひたすら神に祈り、何ごとに関しても確たる保証のない世界を己のみを頼りにして生きていくしかなかったユダヤ人たちの歴史そのもの――少なくともこの部分は、現実においても同様である――を何よりもくっきりと映し出している。
 長く、過酷な流浪の果てに辿り着いたシトカからすらも追い払われ、もはや行くあてもない300万のユダヤ人たちの中で膨れ上がる「祖国」への欲求――ランツマンが追う事件の裏に広がっているのは、あまりに長きにわたって虐げられてきた人々の、この世界に対する怨嗟であり、寄る辺なき者たちの、「故郷」に対する強迫的とすらいえる憧憬の念であり、そしてまた、そういった人々の意思を利用しようと企む権力者たちのどす黒い陰謀の構図である。そして、その根底に横たわっているのは、「国家」と「個人」の相克という、非常に現代的で、かつ答えの出ない大きな、大きな問題なのである。
 だからこそ、物語のラスト、ランツマンが示す「回答」に、ぼくは思わず感動してしまった。未読の人の興を削がないように、あえて仔細は書かないけれど、こうも鮮烈に、大胆に、「国家」と「個人」の関係を表現したことばを、ぼくはこれ以外に知らない。そしてまた、このセリフに到達するためにランツマン=作者が辿ってきた思索の過程を思うとき、ぼくは打ちのめされそうな気分になってしまった。
 こんな素晴らしいセリフを、気負うことなく書くことのできる人間が、この国にいったいどれほどいるだろうか。
 その事実が、ぼくをどうしようもなく切ない気分にさせてしまう。
 自らのアイデンティティが根底から揺らぐことなどない、と無意識のうちに信じているぼくたち。この国が、きれいさっぱりこの世から消えてしまうかも知れないなんて、夢にも思ったことがないぼくたち。
 そんなぼくたち日本人に、この作品に匹敵するような文句なしに素晴らしい小説を生み出すことができるのだろうか。
 そんなことを思いながら、この本を読み終えた。
 
 もしあなたがまだこの本を読んでいなくて、読もうかどうしようかと迷っているなら、ぼくは一も二もなく読むことを勧める。
 こんなに贅沢で、知的で、かっこいい小説は滅多にない。
 これほど面白い本を読まないなんて、そんな選択は本当にもったいない。