『アメリカン・スナイパー』(2015年、アメリカ/監督:クリント・イーストウッド/出演:ブラッドリー・クーパー、シエナ・ミラー他)

INTRODUCTION
クリス・カイル。
米軍最強とうたわれる海軍特殊部隊シールズの精鋭。160人もの敵を倒した伝説的狙撃兵。
いろいろなことを皆は言う。いわく英雄、いわく悪魔。歴史に名を刻んだ数多の狙撃兵と同じように、伝説のもやに包まれた存在。
でも、そんな彼の素顔は、ひどく人間的で、それゆえにかなしい。

STORY
2003年、イラク。廃墟と化した街で、米海軍特殊部隊シールズの狙撃兵クリス・カイルはパトロール中の海兵隊の援護任務についていた。
彼の目の前に現れたのは、ひとりの女性とあどけない顔つきの子どもだった。ただの通行人だろうか。いや――ちがう。旧ソ連製のRKG-3対戦車手榴弾を持っている。友軍の戦車を攻撃するつもりなのだ。放っておけば、多くの仲間の命が危ない。
彼はだから、二人を撃った。そしてそれが、イラクにおける彼の最初の戦果だった。

「人間には三種類いる。羊、狼、そして牧羊犬だ」――それがカイルの父親の価値観だった。だから、お前は牧羊犬になるんだ、と。
ロデオのヒーローとして活躍しつつも、人生に行き詰まりを感じていたカイルは、米大使館爆破事件の報に接してその教えを思い出した。そして、いてもたってもいられず、海軍の新兵募集所の門を叩いたのだ。やがて彼は、海軍はおろか米軍全軍の中でも最精鋭とうたわれる特殊部隊、シールズに志願。過酷な訓練を経て、カイルは自らの狙撃兵としての適性を見出す。
一方で、カイルは酒場で偶然出会った女性、タヤに心ひかれる。幾度かのデートの末、ついにゴールインを果たした二人だったが、しあわせな結婚生活はほんのわずかしか続かなかった。
2001年9月11日、テロリストにハイジャックされた旅客機が世界貿易センタービルペンタゴンにつっこんだからだ。
前代未聞の同時多発テロに震撼したアメリカは、国家を挙げて「テロとの戦い」に突入していく。アフガニスタン、そしてイラク……その戦いの尖兵として、米軍最精鋭たるシールズにかけられる期待は大きかった。だからこそカイルは身重のタヤを置いて、イラクへと出征したのだった……。

イラクの地で、カイルはめきめきと狙撃兵としての本領を発揮していった。昼夜をとわず、場所を選ばず、引金を切る指と化して撃ち続けた――友軍に仇なす敵を容赦なく殺し続けた。やがて彼は、多くの兵士たちから英雄視されるようになる。だがそれは同時に、アメリカの支配を快く思わない連中の憎しみを一身に集めることでもあった。「ラマディの悪魔」を抹殺するべく、アル・カーイダの指導部は腕利きの狙撃手・ムスタファを招聘したのだ。恐るべき強敵の登場に苦しめられるカイル。だが、問題はそればかりではなかった。
来る日も来る日も殺し、殺し、殺しつづけるうちに、いつしかカイルの精神はじわじわと荒廃し、国で帰りをまつタヤとのあいだに深刻な乖離が生じ始めていたのだ……。

IMPRESSION
とにかく、ただひたすら圧倒される映画でした。
ひとりの男の人生を通して描かれる、9.11以降のアメリカの肖像。その重み、その痛みに、ただただ胸がつまり、言葉を失うしかありませんでした。

本作は周知のように伝記映画であり、同時におどろくほど明快な西部劇のフォーマットにそってつくられたエンターテインメント映画という側面をもっています。狙撃兵同士の息詰まる死闘はガンマンの決闘のイメージそのままですし、砂塵舞うイラク市街地での銃撃戦はマカロニ・ウェスタンめいた雰囲気をただよわせています。カイルの宿敵となるアル・カーイダの狙撃手、ムスタファや、ザルカウィの右腕と目されるアル・カーイダ幹部《虐殺者》の造形も劇画的にデフォルメされていて、ステレオタイプな「テロリスト」や「イスラム過激派」の範疇におさまらない強烈な個性がありました(特に《虐殺者》のファッションは印象的でした――あの黒革のジャケットはじつにいい)。
しかし、だからといって、本作は能天気な活劇映画ではありません。むしろ、そうしたフォーマットを採用したことで、かえって戦争という究極の暴力の無惨さ、冷酷さが浮き彫りになっていくのです。
本作における銃撃戦はひたすら過酷で恐ろしいものとして描かれます。耳朶に突き刺さる金属質の銃声は猛々しく暴力的であり、銃撃によってもたらされる死はどうしようもないほど凄惨です。ムスタファがはじめて登場し、カイルたちのチームに銃撃をあびせるシーンはその好例でしょう。姿なき狙撃兵の恐怖、突然襲いかかる死の暴力性は観る者の心を容赦なく凍らせます。銃声が銃弾より後から届くという描写(高速ライフル弾は音速より速く飛ぶので、こういうことは実際に起こる)もあいまって、狙撃兵がいかに恐ろしい存在であるかがあからさまに示されるわけです。
そして、そうした「恐るべき殺人マシン」としての狙撃兵のイメージは、そっくりカイルにもはねかえってきます。なにしろ、彼が最初に撃った相手は女性と子どもなのです。「That's right. I've killed women and children. I killed just about everything that walked or crawled at one time or another.(そのとおりだ。女も子どもも殺した。歩くやつも這っているやつもなんでも殺してやった)」――イーストウッドの名作『許されざる者』の有名なセリフのように、容赦なく敵を殺していくカイルの姿は人間離れしていて、ただひたすら恐ろしく感じられました。
しかし、そんなカイルは同時に、ひとりの夫、ひとりの父親でもあるのです。そして、兵士と家庭人というふたつの顔のはざまで、カイルの心はゆっくりと引き裂かれていきます。過酷な戦地での経験はいやおうなくカイルの精神をむしばみ、彼の家庭をおびやかしていくのです。そんなカイルのことを誰よりも案じ、彼との気持ちの乖離に苦悩するタヤの姿もひたすらに切なく痛々しいものでした。
そんなふたりの距離感を、イーストウッド監督は携帯電話を使って効果的に表現します。過酷な戦場に身を置くカイルと、ひとりぼっちでわが子を守るタヤとの切ないすれ違い。いともたやすくつながってしまえるからこそ、互いの絶望的な遠さを思い知らされてしまう。それは、他の多くの米兵の家族も経験した苦しみでもあるはずです。この世界でいちばん近いはずのふたりが、どうしようもなく引き離されてしまうことの恐ろしさ、かなしさ――それは平和な日本でくらしているぼくにはリアルに想像しがたく、それゆえに圧倒されてしまいます。

この映画はクリス・カイルの物語であると同時に、彼の目を通して9.11以降のアメリカのたどった道のりを描いた映画でもあります。冒頭、イラクの市街地を進む戦車をとらえる地を這うようなショット。それは後半のプレデター無人機の視点からのショットと明快な対比をなしています。4度もの「ツアー」を経験したカイルが見てきただろうイラク戦争の推移を、イーストウッドは巧みな手つきでスクリーンにおとしこんでいきます。
そうして描き出されるアメリカの肖像は、どうしようもなく沈痛で重々しいものです。膨大な兵員と予算をついやしてなお、「テロとの戦い」は終わる気配を見せない。多くの兵士が心身に癒えない傷を抱え、軍を去っていく。そのことがアメリカ社会全体に投げかける重く暗い影。
「牧羊犬」たらんと欲し、戦いに身を投じるカイルも、いつしかどうしようもない運命にとらわれていきます。流された多くの血が、カイルの心をいやおうなく呪縛するのです。守れなかった多くの仲間たちが、彼を幾たびとなく戦場に呼び戻すのです。祖国を守るために銃をとったはずのカイルは、いつのまにか流された血をあがなうために戦うようになってしまうのです。それは、こういってよければ、彼が「蛮人ども」と呼んでやまないイラクのテロリストや民兵といくらもちがわぬメンタリティではないでしょうか。
戦争というものは、どうしようもなく人間を変えてしまう。多くの人々の運命をねじまげてしまう。それがどんな理由ではじまったものであるにせよ、戦争は多くの人間を苦しめ、永遠に消えない傷を残す。それは動かしがたい真実であると、イーストウッドは我々につきつけてきます。
しかし、イーストウッドイラク戦争について、その是非を語ろうとはしません。イーストウッド自身はイラク戦争に反対であったといいますが、そうした主張は本作においては注意深く、やかましくならないようにうすめられているように思います。
それは、この物語がクリス・カイルの物語であるからでしょう。クリス・カイルは、イラク戦争は正しい戦争だったと信じていたのですから。だからこそ、イーストウッドは本作で「ただ、そうあるもの」として戦争を描き、提示してきたのでしょう。自分自身の信条を映画に過剰に反映させることをよしとしなかったのでしょう。
だからこそ、本作が問いかけるものは重く我々の心に突き刺さってきます。戦争を引き起こすのは他でもない、我々ひとりひとりの決断であり、その結果として兵士は戦場におもむくのだと。クリス・カイルは特別な存在ではない。彼と同じように、過酷で困難な任務につき、倫理のがけっぷちに立たされ、精神をすりへらしながら戦う多くのひとびとがいる。そして彼らもまた、愛するひとを国に残して戦っているのだと。そんな彼らの犠牲の上に、この国は成り立っているのだと。
だからこそ、とこの映画は問いかけます。あなたもまた、この物語と無関係ではないんだ、と。戦争と無関係ではないんだ、と。
それがどういうことなのか、自らの胸にしっかりと問うてほしい。
ぼくはこの映画から、そういう思いを受け取ったような気がしたのです。

だから、この映画は『アメリカン・スナイパー』なのだと、そう思います。