血みどろの哀歌

 「映画の題材として、セックスと暴力ほど陳腐なものはない」とよく言われる。なるほど、まったくその通りであって、実際暴力ほど、映画の中で再三描かれてきたものはないだろう。80年代ハリウッド製アクション映画なんて、ひたすら主人公が誰かをぶん殴るか銃をぶっ放しているかのどちらかだし(ぼくは大好きだが)、時代劇だって斬り合いだのなんだのと結構派手にやっている。アニメ映画にだって凄いアクションシーンはたくさんある。主人公のパンチ一発で悪役がはるか彼方にぶっ飛ばされるシーンはもはや定番といっていいし、流血シーンだって珍しくない。
 しかし、実際のところ、作品の主題として「暴力」を描いた映画というのは、どれだけあるのだろうか。
 暴力が恐ろしいのは、そこに「痛み」があるからだ。「殴られたら痛い」「ナイフで刺されたら死んじゃう」という感覚があるからこそ、ぼくたちは暴力を恐れるわけだ。しかし、そうした「痛み」を伴った暴力を描いた作品というのは、実際そんなに多くない。あくまで多くの観客が求めているのは、爽快なアクションから来るカタルシスであって、わざわざ金を払って厭な思いをするつもりなどないのだから、製作側がそうした描写を避けたがるのも当然とは言えるが。
 しかし、この映画に関して言えば、そうした心配は全く必要ない。
 なぜなら、これは本物の「暴力映画」だからだ。


『哀しき獣』(出演/ハ・ジョンウ、キム・ユンソク、監督/ナ・ホンジン、2010年・韓国)


 この映画、もともとの題名は『黄海』といった。どうして題名が変えられてしまったのかは不明だが、個人的な感想を言わせてもらえれば「正解」だったと思う。この映画に流れる、荒々しくどこか物悲しい雰囲気を的確に表現するのに、この上なく適当な題名ではないか、と。
 主人公には常に暴力の翳がつきまとっている。博打を打つときも、タクシーを運転しているときにも、食事をしているときさえも。何気ない一瞬一瞬に、ぴりぴりと張り詰めたような空気がみなぎっているのだ。極限まで膨らみきった風船が、微妙なバランスで弾けることなく安定を保っているかのような危うい雰囲気が。それが破れると、途端に凶暴な暴力が炸裂し、荒れ狂う。前半の賭博場の乱闘シーンの凄まじさは凄いの一言だ。まさしく男たちが獣のように吼え、叫び、殴りあう。投げつけられた椅子がぼくらの方に向かって飛んでくる。思わず、危ない!と叫びそうになってしまうような、強烈なインパクトがあった。殺陣の舞踏のような美しさはないが、剥き出しの獣性を叩きつけるような荒々しい暴力の凄まじさに、ぼくはすっかり圧倒されてしまった。
 監督はよほど暴力シーンにこだわりがあるのか、その描写は偏執的とすらいえるほどだ。どうしたら観客が怯え、震え上がるような暴力を描き出せるだろうかと、監督がじっくりと考え、あれこれとトライしている様子が目に浮かぶようだ。物語の中盤、主人公が死んだ男から指を切り落とそうとするシーンはまさに白眉だろう。このシーンを描くにあたって、監督はあえて主人公の手元を映し出すことを選択しなかった。その代り、俳優の演技力と巧みな効果音によってその様子を観客に想像させようとしたのだ。その計略は、少なくともぼくに関して言えば完全に図に当ったといえる。焦った主人公が、包丁をかちかち階段の踏み板にぶつけながら指を切断しようとする姿、肉を、骨を乱暴に叩き切る湿ったような鈍い音、びちゃびちゃと血の滴が滴り落ちる音。どんよりと黒味がかった映像の中、どす黒い色に変じた血が白い床の上にじわじわと広がっていく様。断言してもいい、なまなかなホラーなど問題にもならぬ恐ろしさだ。包丁が振り下ろされるたび、ぼくは思わず自分の親指の付け根を指でさすっていた。恥ずかしい話だが、そのシーンの間ずっと、そんなことをしていたのだ。いささかぼくは過敏に反応しすぎたのかも知れない。しかし、それでもこのシーンが途方もなく恐ろしいことには変わりない。
 監督の企みといえば、この映画にはほとんど銃がでてこない。物語の中盤、主人公を追う警察官たちがリボルバーを所持している程度である。主人公を執拗に追跡する朝鮮族ヤクザたちは手斧(!)や包丁、棍棒などで武装しているだけだし、素手での殴りあいのシーンも多い。第一次大戦塹壕戦がそうであったように、飛び道具なしの白兵戦は、否応なく血みどろのデスマッチの様相を呈する。物語の終盤で繰り広げられる激烈な戦闘シーンは、それをなにより如実に示している(それにしても、手斧というのは実に強烈なチョイスであることよと思っていたら、なんと朝鮮族ヤクザは本当にこうした凶器を使うそうで、思わぬかたちで「アジアの闇」の一端を垣間見たようで興味深かった)。何発も手斧で頭を殴打(としか形容しようがない)された犠牲者が、ぐしゃぐしゃに砕けた頭頂部からだらだらと血をこぼしながらうわ言をぼそぼそと繰り返す様子とか、ビニール袋に包まれた犠牲者を棍棒でめった打ちにしたりとか、包丁でぐっさり突き刺された腹部からどくどくと血があふれて刺した方も血まみれになるとか、まさしく韓国版「業界の裏伝説」みたいな壮絶暴力シーンがこれでもか、これでもかとばかりつるべ撃ちされる。これが、正直にいってかなりこたえた。何が何って、痛いのだ。そうした筆舌に尽くしがたい暴力を受けるキャラクターたちの苦痛が、まるで我がことのように感じられてくるのだ。それは、この映画のキャラクターたちがみな、《普通の人間》として描かれているからに他ならない。
 この作品で、無惨な最期を遂げるキャラクターたちは、「戦闘員A」とか「チンピラB」で表現されるような《やられ役》ではない。「世界制服を企む悪の組織」みたいな《絶対悪》もいない。ただいるのは、笑い、怒り、ときに悲しむ、血の通った平凡な人間たちである。恐ろしい朝鮮族ヤクザたちも、仲間内ではよく笑い、馬鹿話に花を咲かせるごく普通のアンちゃんおっちゃんたちであるし、あくどい計略を仕掛ける韓国ヤクザのボスも、ばかな子分の言動に思わずぶち切れ、内心の怯えを何とかしようと愛人との営みに熱中しようとする弱さを持った普通のおっさんである。無論主人公にしても、妻を愛し、子供を愛し、大切な家族を守るために必死に奮闘する一人の男でしかない。そんな彼らが、ふとしたことを切っ掛けに血で血を洗う凄惨な殺戮劇に突入していってしまう様を、監督は必要以上のエモーションを交えず、淡々と描く。しかしそれがかえって、彼らの哀しさを浮き彫りにしているように思われた。
 この映画の邦題は「正解」であると、最初に述べた。それはこの映画が、まさしく生きるために「獣」にならざるを得ない「哀しさ」を背負った「人間たち」の姿を描いた映画だからだ。