北限の街を、刑事はさまよう

 2007年、アラスカ・シトカ特別区。身を切るような冷たい風が吹きすさぶこの街で、ある日1人の男が死んだ。
 被害者の名はエマヌエル・ラスカー。エスペラント語創始者の名を冠したホテルの一室で、独りチェス盤に向かい、ヘロインの見せる幻覚と戯れていたその男の脳天に、何者かが銃弾を叩きこんだのだ。
 事件の捜査を担当することになったシトカ特別区警察の殺人課刑事、マイヤー・ランツマンは捜査行の前途が容易ならぬものになることを予感する。300万の人間が住まうこの街で、犯罪は決して珍しいものではないが、この種の処刑スタイルの殺人となるとその限りではないし、その類の事件が発生した場合、ほとんど確実に迷宮入りになるからだ。そして、もうひとつ、この事件の捜査にどす黒い暗雲を投げかける事態が、じりじりと進行しつつあった。
 かつて、シオンの地に帰還しようとした流浪の民たちの試みが、銃火によって粉砕されてからおよそ60年――そんな彼ら、ユダヤ人たちにとって、数少ない安息の地であったシトカ特別区は、その歴史に終止符を打ち、2ヵ月後にアメリカ合衆国に返還され消滅する。避け得ぬ「復帰」の荒波は、容赦なくランツマンの、そしてシトカの街に生きる300万のユダヤ人の運命を、弄ぼうとしていたのだった……。


ユダヤ警官同盟』(原題/“The Yiddish Policemen's Union”、著者/マイケル・シェイボン新潮文庫

ユダヤ警官同盟〈上〉 (新潮文庫)

ユダヤ警官同盟〈上〉 (新潮文庫)

ユダヤ警官同盟〈下〉 (新潮文庫)

ユダヤ警官同盟〈下〉 (新潮文庫)


 実は、この記事を書くにあたって、いくつか他の書評系ブログを閲覧して世間の評判を確認してみたのだが、予想していたよりも否定的な意見が多くて驚いた。それではどこが気に入らないのかというと、おおむねこの一点に集約できるといっていいだろう。
 ユダヤ人のことばっかダラダラ書いてあって、わけわかんねー、と。
 正直に申し上げるが、そういう人は本当に損をしている。この本は滅法面白い、一級のエンターテインメントであると同時に、優れた文学作品でもあるからだ。
 冒頭でも示したように、この物語はひとつの殺人事件を起点にして展開するミステリー小説である。また、酒びたりで妻とも離婚し、刑事としても限界に達しつつある孤独な中年男というランツマン刑事の造形は、典型的なハードボイルド探偵小説の主人公のそれである。また、一部のパートを除いて、ランツマン刑事の目を通して物語は語られていく。つまり、この小説はチャンドラーやハメットが体系化してきたアメリカン・ハードボイルドの系譜に属する作品なのである。個人的に、ぼくはハードボイルド小説が大好きなので、この部分だけでもとても楽しめた。
 しかし、この本の魅力はそれだけに留まらない。
 この本の醍醐味は、何といってもその精緻な情景描写にある。冒頭の《ザメンホフ・ホテル》、殺人現場のシーンの描写などは、ほとんど偏執的ですらあり、孤独なチェス・プレイヤーの生活の断面がくっきりと浮き彫りにされる様には唸るほかない。まるでカメラで写しとったかのようにリアルで、細部まで完璧に描きこまれた小汚い安ホテルの一室から、読者は異様で猥雑なシトカの街並みに吸い込まれていく。
 著者の精密な筆致によって描き出されるシトカの街並みは、書き割りめいた薄っぺらさからどこまでも遠く、驚くべき強度で以て屹立している。じっくりと読み込めば、歴史を重ねた古い建物のくたびれた風情や、通りを吹きぬける冷たい風の感触までが感じ取れることだろう。一から十まで、作者の脳髄からひねり出された虚構の産物であるにも関わらず、本当にシトカ特別区が存在しているのではないか、と錯覚させてしまうような精緻な文章には、ひたすら敬服するほかない。
 そうした著者の労を惜しまない姿勢は、人物造形にも遺憾なく発揮される。主人公のランツマン刑事は無論のことだが、一瞬しか登場しないようなキャラクターでも、一度見たら忘れられないような強烈な存在感がある。それは、「その他大勢」という無味乾燥な括りには収まりきらない、彼ら自身が生きてきた人生が背後にあり、強固な実体を持って物語の世界の中に確固たる地位を占めているからだ。適当に薄っぺらなテンプレキャラを並べ、体裁を取り繕っているだけの三文小説とは比べものにならない豊穣さだ。この豊かな文章を味わうだけでも、この小説には値千金の価値があると断言できる。
 そうして丹念に物語世界を構築してきたからこそ、ランツマンをはじめとしたユダヤ人全体の頭上から覆いかぶさろうとする《帰還》という容赦ない現実の重さが、まるで我がことのようにのしかかってくる。そして、単なる殺人事件と思われていた今回の事件が、差し迫った《帰還》に対する不安と恐怖の中で人々のあいだに広まる「救世主」の噂、そして前世紀に潰えたはずのもうひとつの《帰還》にまつわる巨大な陰謀と無気味な符合を見せはじめるにつれ、ランツマンは危険な隘路にに引き込まれていくことになる。
 そんなランツマン自身、《帰還》によってシトカを追われたら最後、どこにも行き場のない男である。家族もなく、親戚もおらず、海外に係累がいるわけでもない。《帰還》が現実のものになったら、ランツマンは彼の父祖と同様に、寄る辺なくさまよう放浪の民になるよりほか道がないのだ。ここに至って、ランツマンは否応なく自らの所属する民族の行く末について、真剣に考えることを余儀なくされるのである。
 ひとつの民族と一個人の運命とが奇妙に重なり合う――これがこの作品の大きなテーマである。ナチの暴虐を逃れてアラスカに逃げ延びてきたランツマンの父を見舞った苦痛に満ちた日々は、同時に過酷なアラスカ居留地での生活を耐え忍んだユダヤ人移民たちの歴史と重なるし、ランツマンの相棒・ベルコの抱える複雑な過去は、アメリカ政府の身勝手な政策の犠牲になったユダヤ人とネイティブ・アメリカンとの相克の歴史の写し鏡になっている。そして、避けられない《帰還》に怯え、「救世主」の到来を切望するシトカ市民の姿は、時の為政者たちの思惑に、風に舞う木の葉のように翻弄され、寄る辺なくさすらい、ひたすら神に祈り、何ごとに関しても確たる保証のない世界を己のみを頼りにして生きていくしかなかったユダヤ人たちの歴史そのもの――少なくともこの部分は、現実においても同様である――を何よりもくっきりと映し出している。
 長く、過酷な流浪の果てに辿り着いたシトカからすらも追い払われ、もはや行くあてもない300万のユダヤ人たちの中で膨れ上がる「祖国」への欲求――ランツマンが追う事件の裏に広がっているのは、あまりに長きにわたって虐げられてきた人々の、この世界に対する怨嗟であり、寄る辺なき者たちの、「故郷」に対する強迫的とすらいえる憧憬の念であり、そしてまた、そういった人々の意思を利用しようと企む権力者たちのどす黒い陰謀の構図である。そして、その根底に横たわっているのは、「国家」と「個人」の相克という、非常に現代的で、かつ答えの出ない大きな、大きな問題なのである。
 だからこそ、物語のラスト、ランツマンが示す「回答」に、ぼくは思わず感動してしまった。未読の人の興を削がないように、あえて仔細は書かないけれど、こうも鮮烈に、大胆に、「国家」と「個人」の関係を表現したことばを、ぼくはこれ以外に知らない。そしてまた、このセリフに到達するためにランツマン=作者が辿ってきた思索の過程を思うとき、ぼくは打ちのめされそうな気分になってしまった。
 こんな素晴らしいセリフを、気負うことなく書くことのできる人間が、この国にいったいどれほどいるだろうか。
 その事実が、ぼくをどうしようもなく切ない気分にさせてしまう。
 自らのアイデンティティが根底から揺らぐことなどない、と無意識のうちに信じているぼくたち。この国が、きれいさっぱりこの世から消えてしまうかも知れないなんて、夢にも思ったことがないぼくたち。
 そんなぼくたち日本人に、この作品に匹敵するような文句なしに素晴らしい小説を生み出すことができるのだろうか。
 そんなことを思いながら、この本を読み終えた。
 
 もしあなたがまだこの本を読んでいなくて、読もうかどうしようかと迷っているなら、ぼくは一も二もなく読むことを勧める。
 こんなに贅沢で、知的で、かっこいい小説は滅多にない。
 これほど面白い本を読まないなんて、そんな選択は本当にもったいない。