生きるために、闘え

 ちょっと想像してみて欲しい。
 もしあなたが乗っていた飛行機が、運悪く零下20度のツンドラ地帯のど真ん中に墜落してしまったとしたら。
 防寒着はない。食料も、水もほとんどない。暖を取ろうにも、暖房が使えないのはもちろん、火を起こすのも至難の業だ。
 救援も期待できない。広大無辺の雪原の中にあって、人間など、ほんのちっぽけな、虫けらにも等しい存在だ。捜索隊を何十人、いや何百人繰り出したとしても、あなたを見つけ出すことは不可能に近い。それはまるで、うず高く積まれたわらの山から、一本の小さな針を見つけ出すにも等しい絶望的な試みだ。あなたは、数少ない生存者とともに、ただそこにいるだけで命を失いかねない純白の地獄を踏破し、文明に守られた人里に辿り着かねばならない。
 しかし、問題はそれだけではない。
 あなたの喉笛に鋭い牙を突きたてようと、冷酷非情な狼の群れが、虎視眈々と狙いをつけているのだ……。


THE GREY 凍える太陽』(監督/ジョー・カーナハン、出演/リーアム・ニーソン他、2011年アメリカ作品)


 世の中に、「サバイバル映画」と呼ばれる映画はたくさんある。
 そういう映画には、いくつかの「決まりごと」というのがあるのが常だ。極限状況下でのロマンス、悲壮かつ劇的な「泣かせる」シーン、そして最後の最後、どたん場に追い詰められた主人公たちに差し伸べられる救援の手。もちろん最後はハッピーエンド、ご家族で安心してご覧いただけます――有り体に言ってしまえば、そういう「先が読みやすい」ご都合主義的展開が、この種の映画の特徴だ。
 そういう安直な展開を、この映画は厳しく拒絶している。
 何より徹底しているのは、登場人物たちを見舞う悲惨な最期の描写だ。彼らの死に様は実に様々だが、そこには劇的な要素は一切ないし、悲壮感をかきたてるような演出もない。キャラクターたちは、じつに静かに、あっけなく死んでいく。その描き方は、いっそ即物的とすらいえるほどに淡々としたものだ。
 また、キャラクターたちに割り振られた「死に方」も、いわゆる「決まりごと」には程遠い。普通、こういう映画では、善良で協力的な人物は最後まで生き残るか、そうでなくても比較的穏やかな最期を迎えるものだし、逆に勝手気ままで傲慢なトラブルメーカーには、その振る舞いにふさわしい悲惨な死が用意されているものだ。しかし、本作を撮るにあたって、カーナハン監督はそうした「定型的な死」を一切拒絶した。各人の人格/行動と、一切の因果関係を持たない死に様を、キャラクターたちに与えたのである。
 そんな不条理な――と、そう叫びたくなるような悲惨な展開。かくいうぼくも、そのあたりは同様で、「この人には助かって欲しい……」と願っていた人物が、凄惨な最期を迎えたときにはかなりショックだった。「なんと残酷な……」と、しばし信じられない思いだった。
 このあたりの描写に関して、次に示す監督のセリフはなかなか意味深長である。
  

「ここには善人も悪人もいない。ただ“存在”があるのみだ」公式パンフレット「PRODUCTION NOTE」より抜粋

 監督が、いわゆる「勧善懲悪」のストーリーを選択しなかった理由が、このことばには凝縮されているように思う。極限の環境にあって、皮相な善悪二元論などは全く意味を持たず、ただ彼らの生死を分かつものは運だけなのだ。
 ニーソン演じる主人公、ハンターのオットウェイもその点では他の生存者と同様だ。飛行機事故に見舞われた際、とっさの機転で命を永らえたオットウェイだが、愛用のライフルは墜落時のショックで破壊され、彼は丸腰同然になってしまう。また、妻を失い、喪失感に苛まれるオットウェイは、自殺願望に囚われ、生きる気力を失いかけてもいる。ひょっとすると、他の生存者よりも死に近い位相に存在しているかも知れない人物なのである。
 そんな生存者たちに、血に飢えた獰猛な狼の牙が迫る。しかし、頼みのライフルを失い、打つ手のないオットウェイをはじめ、彼らにこの脅威を抑止する力はない。彼らにできるのは、狼の追撃をかわしながら、ひたすら逃げ続けることだけだが、分厚く雪が降り積もり、足下も危うい状況ではそれすら難しいことになってしまう。かくして、狼の血なまぐさい息を首筋に感じながら、生存者たちはひたすらアラスカの原野を逃げ惑うことになる。無論のこと、格好をつける余裕などありはしない。無様によろめき、転び、雪まみれになりながら、声にならない悲鳴を上げてよたよたと歩き続ける。その姿に、安手のヒロイズムが入り込む余地など一切ない。
 この映画が他の「サバイバル映画」と一線を画しているのはそこだ。徹底して「ウソっぽさ」を排除した、リアリズムに満ちた硬質の映像が、物語の非情さを際立たせ、生存のために命がけで闘う男たちの姿をくっきりと浮かび上がらせている。かっこつけのポーズなど、紙切れほどの意味も持たない極限状況下で、ひとがいかに生き、そして死んでいくのかを、この映画は端的に見せつける。
 
 しかし、この映画の醍醐味はそれだけではない。
 何よりもこの映画で注目すべきなのは、生存者たちを執念深く追跡する狼たちの存在だ。この映画で描かれる狼は、単なる「血に飢えた野獣」というステロタイプに留まらない、狡猾にして冷徹無比のハンター集団であり、闇に紛れて音もなく襲撃をかけてくる様は、ほとんど妖怪めいている。カーナハン監督はインタビューに対し、狼たちに「ミステリアスなファンタジー性」を盛り込みたかった、と述べているが、その目論見は見事にあたったと言うべきだろう。この物語における狼たちは、単なる「凶暴なモンスター」という役割を超えた、「大自然の猛威」の象徴になっているのだ。
 また、CGを極力使わず、実際の苛烈な天候のもとで撮影したアラスカの白い荒野は、いかなる生物の生存も容易に許さない過酷な相貌をむき出しにして、観客に容赦なく迫ってくる。びょうびょうと吹き荒れる嵐、息も白く凍りつくほどの冷気、大の男が膝まで埋まってしまうほどうず高く降り積もった雪――それらが渾然一体となり、荒れ狂う一頭の凶獣と化して生存者たちを痛めつける。文明の手厚い保護を受けられない生身の人間が、いかに脆く弱い存在であるかを、この映画は否応なく思い出させてくれる。
 だからこそ、かも知れないが、ほんの一瞬、彼方に見える高い峰の、白い雪を頂いた姿には、息を呑む凄絶な美しさがある。終盤におけるワンシーンの風情などは、雪舟水墨画か、ワイエスの風景画を思わせる枯淡の美に満ちて、思わず溜め息がこぼれそうになるほどだ。
 そんな、死と生の境界がおぼろに揺らぐ厳寒の荒野で、オットウェイたち生存者は、これまでの自らの人生を見つめ直すことになる。そして、いったいどのように行動したらいいのか、真剣に自らに問い直すことを求められるのである。その思索の過程で、オットウェイが吐く意味深長なセリフがある。

「人生の大切な思い出は、生きるため、闘うための力になる」

 この映画における最大のテーマとはそれである。「生きるために、闘え」――彼方から差し伸べられる死の抱擁をはねのけ、頑迷に生にしがみつき、どれほど醜く見えようとも、なりふり構わず闘い続けるということ。その大切さを、この映画は真っ直ぐに訴えかけてくる。
 その中にあって、一度は死に近づいたオットウェイも、再び生きるための闘争に飛び込んでいく。そのとき、彼の心に去来するのは、父が残した一篇の詩だ。

「もう一度 闘って 
 最強の敵を倒せたら
 その日に死んで 悔いはない
 その日に死んで 悔いはない」

 ラスト、絶対の危機に追い込まれたオットウェイは、静かにこの詩を口ずさみながら、「最強の敵」と闘うための準備を整える。その相貌、その目にみなぎる決然とした光は、生に倦み、死を乞い願う男のものではない。そして、高らかに、雄雄しく咆哮しながら、彼は最期の決戦に打って出るのだ。
 その姿を見たとき、不覚にもぼくは涙しそうになってしまった。深く傷つき、絶望に沈んでいた男が、苦難を経て復活し、雄雄しく危機に立ち向かう戦士へと変貌する――この映画は、まさにひとりの男の壮絶な再生の道程を描いた作品なのだった。

「この物語には目的地がない。あるのは旅の過程だけだ」

 そうインタビューに語ったように、カーナハン監督は、最期の闘いの決着をはっきりと描こうとしなかった。エンドロールのあと、激闘の傷跡を留めて横たわるオットウェイの姿は映し出されるが、闘いがどのように終わったのか、判断することは難しい。
 だが、その一点を以て、この作品にけちをつけることはできない。
 なぜならば、闘いの前に、この物語はすでに決着していたのである。

 
 この映画は、誰にでもお勧めできるものではない。
 しかし、面白いことは無類だし、何より生きるため、決然として起つオットウェイの姿は、文句なしにかっこいい。
 今、最高にかっこいい男を観たければ、この映画はぜひとも外せない一本になるはずだ。



 なお、追記として。
 この映画のエグゼクティブ・プロデューサー、トニー・スコット氏が、昨日唐突にこの世を去った。
 『エネミー・オブ・アメリカ』や『スパイ・ゲーム』、そして『トップガン』など、素晴らしい映画を数多く送り出してきた偉大な才能に敬意を表して、この場を借り、ひとりの映画ファンとして別れのことばを送りたい。
 ありがとうございました、ミスタ・スコット。